櫛 野 節 謡 民謡履歴メモ帳
昭和48年(1973年)、中学校時代の同級生に誘われて、松本政治先生が指導していた「水産民謡研究会」に入会したのが民謡を始めるきっかけでした。私が生まれた新潟市西堀通りは寺町で、さらに自宅の7番町は花街でもあり、自宅の向かいは杵屋流の三味線の師匠が、芸者見習いの半玉の娘さんに、長唄を一日中教えていました。そのような環境で子供の頃から長唄や三味線をずっと聞かされて育ったせいでしょうか、私が唄う民謡は、政治先生の唄う民謡と、何か違う違和感を感じながらも、6年ほど全国各地の民謡指導を受けました。
昭和54年、地元新聞に「新潟の人間は地元の民謡をもっと大切にすべきだ」との鈴木節美先生の記事を見て、趣味の民謡から、郷土の伝承芸能、無形文化財としての民謡の価値に気づかされ、さっそく鈴木節美先生の門下生となり、新潟民謡専門に指導を受けました。特に「越後追分」は随分力を入れて教えて頂きました。
その頃は節美門下生も多数在籍しており、多くの先輩の中には、逆に私の唄う民謡に違和感を感じるのか、いろいろ細かく歌唱アドバイスしてくれるのは有り難いのですが、私にはどうしても納得が行かない点が多く、櫛野さん、民謡は「これが、越後追分ではなく、これも、越後追分です」「10人が越後追分を唄えば10の越後追分がありますよ、その中からよいものは世間から支持されて残り、よくないものは淘汰されて消えていきます」節美先生から教えて頂いた一番民謡の本質を言い当てていると思われる言葉を信じ、自分の良かれと思う唄が本当は良いのか悪いのか、その答えを求めて手当たりしだい民謡コンクールに挑戦しました。
昭和60年文京町と酒屋の2ヶ所で民謡教室を開く事になった時、このコンクールでの唄のせめぎ合い経験と、夢中になって聴いていた「キンカン素人民謡名人戦」とその審査結果、子供の頃より聞かされた杵屋姉さんの三味線、さらには何よりも松本政治先生の卓越した民謡指導方法、鈴木節美先生の民謡に対する情熱、信念がバックボーンとなり支えてくれました。
中国黒龍江省での、地方政府交流シンポジュウムのアトラクション出演や、国技館初め全国各地の文化施設でのコンクール出場やテレビ出演、一流ホテルでのアトラクション出演やボランティア出演、中学校民謡授業指導支援などなど、世間一般の日常生活では、まず経験する事のなかった好きな事をやって、それで思いもかけない場所に立ち、思いもかけない人の前で自分の積み重ねてきた芸を披露する。年齢、性別、肩書きの垣根を超えた、多くの志を同じくする人達との繋がり、民謡をやってきたおかげで楽しい思い出を数多く作ることが出来て本当に良かったと思いますし又、一つの人生を過ごしながら、全く日常とはかけ離れたもう一つ別の人生を、平行して二人分生きて来た様な、随分得をした様な気もします。
覇を競う舞台はもう充分に経験しました。これからは後進の指導と自分の楽しみの為に民謡を唄って行きたいと思います。ざわ付いていた満員の会場が水を打ったように静まり返って、自分の唄声と伴奏だけが会場に響いている。自分が表現している波長と、観客の求める波長の完全な一致からくる静寂、背筋が寒くなるようなあの感動が味わいたくて又、舞台に上がります。
昭和49年 あんた 私の年くらいになるまで民謡続けたら いい唄い手になりますよ 寺泊 藤乃井 月子 さんより
新潟 民謡教室