青 森 県 十 三 の 砂 山 櫛野節謡
十三の砂山は青森県(旧)北津軽郡市浦村十三村の盆踊り唄、津軽盆踊り.砂山踊り.砂山節ともいわれている。
その昔、前九年の合戦(1051年〜1062年)で敗れた安倍氏の末裔安東氏は、やがて再び本州日本海側最北端の
陸奥国津軽地方から出羽国秋田郡の一帯にかけて勢力を復活して支配拡大を図り、十三湊を根拠地とし
「十三湊日之本将軍」と称して市浦に巨大な城を築き、自らも水軍を率い安東船と称した700艘ほどの船を
駆使して、海外との交易を活発に行い、ついには中国大陸にまで自分の城塞街「安東」を築いたといわれる。
十三港の居城「福島城」は「城郭は方八十町柵を築き回し、内は面々要害を構うること莫大なり。西は滄海漫々として
夷船京船 群れ集い
艫先を並べ、舳を整え、湊は市をなす、新町は棟を並べ軒を接し、戸数
数千万戸(数え切れないほど
多数の強調表現 ! ? )インドの王舎城、中国の長安城、わが国の平安京に肩を並べる中世貿易港都市であったと、十三湊
の北岸にある山王坊の僧弘智が、古文書「十三往来」に記している。
又この事は最近の発掘調査により街並み跡や、良質の中国磁器など一時代を画して燦然と輝いた
昔の繁栄の跡が数々と出土して、十三湊がそれに近い大きな貿易港都市であったことを裏付けてもいる。
ところが、(旧)北津軽郡市浦村十三村観光パンフレットによれば、興国元年(1340年)八月「波一つ立たぬ海に底鳴りの音がした。
20メートルを越す大津波が突如として起こった。湊は無防備だった。巨大な津波が、呆然となすすべを知らぬ
十三湊の人々とその家を襲う。津波は十数波に及び、十三湊の栄華を一挙に海底に葬り去った。死者十万人余」
東北地方屈指の豪族「安東一族」の経済基盤として、その栄華を支えた十三湊の壊滅により、
栄枯盛衰 つわものどもの夢の後には、わずかに生き残った人々によって伝えられた唄だけが
残った、、「十三の砂山」である。この唄の旋律には何か、もの悲しい哀調を感じるのは
そのような悲劇的な記憶の背景が込められているせいかも知れない。
2011年3月11日14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震 東日本大震災にあわれた被災者の皆さんに心よりお見舞い申し上げます。
亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに,残された方々のこれからの
生活を,何とか耐え生き抜いて再び不死鳥のように復活されることを切に祈念申し上げます。
十三の砂山 歌 詞
十三の砂山ナーヤーエ 米ならよかろナ 西の弁財衆にゃエ ただ積ましょ ただ積ましょ
弁財衆にゃナーヤーエ 弁財衆にゃ西のナ 西の弁財衆にゃエ ただ積ましょ ただ積ましょ
十三を出るときやナーヤーエ 涙で出たがナ 尾崎かわせばエ 先や急ぐ 先や急ぐ
かわせばナーヤーエ かわせば尾崎やナ 尾崎かわせばエ 先や急ぐ 先や急ぐ
さあさ出た出たナーヤーエ 唐船がナ 波に揺られてエ そよそよと そよそよと
揺られてナーヤーエ 揺られて波にナ 波に揺られてエ そよそよと そよそよと
傘を忘れたちゃナーヤーエ 敦賀屋の宿サナ 西が曇ればエ 思い出す 思い出す
曇ればナーヤーエ 曇れば西のナ 西が曇ればエ 思い出す 思い出す
此処で踊ればナーヤーエ 庄屋殿ナ叱るナ 庄屋も若い時やエ 踊たべやネ 踊たべやネ
若い時やナーヤーエ 若い時や庄屋もナ 庄屋も若い時やエ 踊たべやネ 踊たべやネ