新潟民謡 (新潟市民文化遺産) 新 潟 船 方 節 唄 鈴木節美
師匠
幕末から明治にかけて、日本海を行き交う北前船の船乗りによって持ち込まれた、島根県の出雲節に、新潟県の新保広大寺くずし(越後口説)
などが影響しあって変化をしたもので、昭和の初め頃まで新潟の花柳界で盛んに歌われたという。昭和の初めに鈴木節美によって、新潟船方節と
命名されたが 歌詞は八百屋お七や 梅口説きなどさまざまなものがある。今日では地元の節美会など民謡団体の人々によりわずかに伝承されている。
この唄を基にして秋田県男鹿市の民謡歌手,森八千代が、秋田船方節を完成させたといわれている
歌 詞
日和山から(ハイヤサカサッサ)沖ながむれば(ハイヤサカサッサ)沖にはカモメの夫婦ずれ足を櫓櫂に身を船に(ハイヤサカサッサ)
羽を帆にして舟遊び私の心もその通り(ハイヤサカサッサ)夫婦仲良くトコアンチャンそのように(ハイヤサカサッサヨイショデマカショ)
入船したなら(ハイヤサカサッサ)教えておくれ(ハイヤサカサッサ)便り渚の身は捨て小船お主のご無事を祈るゆえ(ハイヤサカサッサ)
雪の降る日も風の夜も身はしみじみと眠られぬ(ハイヤサカサッサ)私の待つ身にならしゃんせ火の無い火鉢を引き寄せて(ハイヤサカサッサ)
灰かきならして紙として手に持つ火箸を筆として(ハイヤサカサッサ)想うあなたの頭字を書いて眺めてトコアンチャン夜をふかす
(ハイヤサカサッサヨイショデマカショ)
梅に迷うても(ハイヤサカサッサ)さくらに迷うな(ハイヤサカサッサ)色よく咲いても散りやすいそこでお梅の申すには(ハイヤサカサッサ)
元は私も若いとき鶯鳴かせたこともある(ハイヤサカサッサ)今はお梅になりたとて人に振られて落とされて(ハイヤサカサッサ)
塩に仲立ちしてもろて紫蘇となじんで色付いて(ハイヤサカサッサ)互いに小皺の寄るまでも瓶の中にてトコアンチャン所帯持つ
(ハイヤサカサッサヨイショデマカショ)
節美会 新潟船方節練習YouTube動画
梅口説き 八百屋お七YouTube動画
茶屋に腰かけ(ハイヤサカサッサ)噂を聞けば(ハイヤサカサッサ)悲しい話を聞きました明日はお七の火刑りと(ハイヤサカサッサ)
それ聞くよりも吉様は七子の羽織に布袴(ハイヤサカサッサ)帯は筑前博多帯晒しの足袋はき雪駄をはいて(ハイヤサカサッサ)
長い大小腰にと落し差し深編み笠に顔隠し(ハイヤサカサッサ)駆けて行くのは鈴が森あまたの見物押し分けて(ハイヤサカサッサ)
お七つらかろ切なかろ煙の中からお七こそ(ハイヤサカサッサ)待ちかねましたよ吉様よお前思えば熱くない(ハイヤサカサッサ)
短いこの世で添うよりも永いあの世でトコアンチャン添い遂げる(ハイヤサカサッサヨイショデマカショ)
早野勘平さんは(ハイヤサカサッサ)猪撃ちなさる(ハイヤサカサッサ)一山超えても猪おらぬ二山越えても猪おらぬ(ハイヤサカサッサ)
三山四山の谷間に猪だと思って玉二つ(ハイヤサカサッサ)猪でないわい旅の人気付けが有るかと懐を(ハイヤサカサッサ)
気付けも薬も無いそうな縞の財布に金なら四、五十両お前は死んではいらぬ金(ハイヤサカサッサ)
私がなければならぬ金貸してくださいトコアンチャン旅の人(ハイヤサカサッサヨイショデマカショ)
十四の時から(ハイヤサカサッサ)つとめはすれど(ハイヤサカサッサ)いまだに受けだす人もない身は高山の石灯籠(ハイヤサカサッサ)
今宵はあなたに灯されて明日はいずこのアンチャンか(ハイヤサカサッサ)どこのどなたにトコアンチャン灯さりょか
(ハイヤサカサッサヨイショデマカショ)